座談会/半田支部30年のあゆみ
と き 昭和57年9月27日
ところ 住吉福祉文化会館
〈出席者〉
手島  実(初代・2代支部長代理)
竹内  豊(6代支部長)
稲葉 正彦(8代支部長)
.
加藤 誠次(3代支部長)
伊東 博之(7代支部長)
水野 洋生(現支部長)
〈司会〉
加賀谷 敬介(前副支部長)
.
.
〈録音及び編集〉
渡辺 真啓(編集委員)
〈写真撮影〉
日比 孝一

歴代支部長30年の想い出を語る

司会 本日の座談会は「愛知建築士会半田支部30年のあゆみ」というテーマでお話し頂きたいと思いますが、まず最初に現支部長のご挨拶をお願いいたします。

水野 歴代支部長様はじめご長老の先生方、御多忙の中お集り頂きましてありがとうございます。支部設立30周年を記念していろいろ記念事業を計画しておることはご存知の通りで、ご案内も届いておるかと思います。その記念事業のひとつとして記念誌にこれから承るお話を載せまして、半田支部の歩んで来た姿を新しい青年建築士の方々にご認識いただければ幸いかと存じます。設立当時やご在任中のご苦労話、またこの30年間の思い出やらいろいろな先輩方のエピソードなど、お話しいただけたらありがたいと思います。

司会 それではお話をお聞きする前に、この30年間に故人となられました会員の方々のご冥福をお祈りするために黙祷をお願いいたしたいと思います。(黙祷)どうもありがとうございました。まず、支部設立当時の模様等についてお話をお伺いしたいと思います。また、その当時は建築基準法とか建築士法それから建設業法といわゆる建築三法が公布されまして、建築業会にもいろいろ問題があったかと思いますので、その点についてもご意見をお伺いしたいと思います。まず手島さんいかがですか?昭和28年の支部設立については。

手島 あれは市の方で企画されたんじゃなかったでしょうか。初代支部長は船張さんでしたね。

稲葉 そうですね。昭和25年ですか、あの画期的な建築三法が出来て、当時としてもこれが好ましいかどうかはともかく、当面ひとり歩きするまでは役所の方で中心になってそれぞれ支部をつくるといったことで、今の電々公社の所に旧市役所があった訳ですが、そこに土木建築課の建築係があって係長が船張英武さんで、そこが半田支部の事務局ということで始ったんじゃないですか。

伊東 そうですね。ただ事務局はそうであったけれども、半田支部を作ろうということで奔走されたのは、竹内さんとか深津さん、渡辺さんとかの民間企業にみえた方じゃなかったかと思うんですね。あの当時、役所という性質上、各役所のほとんどの課長とか、そういう人が支部長になったという例があったからだと思うんですね。

稲葉 おっしゃる通りですね。半田支部といって、今でこそ5市5町になってますが、設立当時は半田市及知多郡ですから、市は半田以外なかった。その時に役所の建築というと船張さんとか竹内東一さんでしたが、どちらの方も半田市の方でなく、また高齢でもあられたものですから。他の支部はそこに住んでいる方が建築のポストにあったんですが、半田の場合はそういうふうで、私らもここにみえる伊東さんも榊原重三さんもみえたんですが、まだ年令的にも20代でしたので、やはり実質的には竹内さんとか手島さんとか渡辺さん、それから成田さんの4方であったじゃないですか。

加藤 そうですね。その当時建睦会というのがあったですね。その中に入っておられた今の4方が非常によくやって立派にお作りになったと思いますね。

稲葉 また市外では杉江さんとか前田さんとかいった方々でしたね。

手島 そうですね。

司会 それで創立当時の会員数は何名位だったですか。

稲葉 設立総会を半田商工会議所で開きましたが、40名位じゃないですか。

水野 このあいだ私、士会本会の方でみて来ましたが、43名でした。

竹内 現在は何名でしょうか。

稲葉 現在は330名くらいですか。

司会 それでは故船張支部長、故竹内東一支部長、当時の御苦労話等を皆さんでひとつお願いいたします。

竹内 本会と支部とのパイプ役というか、それをやったのは私でしたから、本会の様子やいろいろかの事情は、その当時一番よく知っていたと思います。本会の方では、とりあえず会勢委員会がつくられ、それは現在とはやや趣きを異にして支部を早く作らせようと、促進させようというねらいがあったかと思います。だから両方のパイプ役である私が、支部と本部の連絡、指示をあおいだり相談をかけたりそういった覚えがあります。
 ところが、浅学非才はおろか、まあ無学文盲といった方が早い様な私達でございまして、なかなか思う様にいかない。その先には「お前等はなまいきだぞ」という様なそしりを受けたりして大きな壁にぶつかりました。手島さんと、もう他界された渡辺茂さんと、私の3人が当時三羽ガラスといわれた覚えがありますが、そういう者で結束して、どうやら支部設立準備までは出来たのですが、それで支部を作るとなると、なかなかその当時は民間の力なんてものは弱うございまして、どうしてもお役所が先頭に立っていただかんと成り立たないという考えてみれば非民主的だと思えるかも知れませんが、それよりしょうがなかったんです。
 本会でこそ最初からお役人の方が会長にならんで済みましたが、支部としては半田も刈谷だとか安城とかも皆、役所の後援で設立した様な支部だという気がしました。それはまあ会計だとか事務だとか庶務関係がなかなか民間の素人には出来ないということで、役所の方に非常にご迷惑をかけた。稲葉さんなんかその筆頭で、自分の大切な仕事があるのに、それに打ち勝って会の支部の仕事に没頭された。その当時お骨折り頂きました役所の方、それから民間の発起人の方にお礼を申し上げたいと思います。

司会 それでは、二代目の竹内東一支部長当時のことをお伺いしたいと思います。

稲葉 竹内さんはね、ご自身もいってみえたですが、僕はこういうお世話する様なことは性格からいっても充分出来ないと言ってみえました。といっても当時は役所の方が支部長というのが他の支部でも非常に多くて、そういう立場上でお引受けになり、従って任期としては短かかったですね。それで、実務的にも、先程申し上げた様に、竹内さんや手島さん、渡辺さんといった方が中心で、そのあとの連絡等は伊東さんや私どもがいたしました。具体的には雑誌等も当時全部支部へ送って来たものですから、それを皆さんの所へ発送したり、役員会の通知とかも私どもがやった様な記憶がありますね。

司会 その後を引継がれました加藤さんに、三代目の支部長としての当時の出来事等をひとことお願いしたいと思います。

加藤 私が記憶しているのは、32年度と33年度と一期だけやったと覚えていますが。まだあの当時は、庶務的にもいろんな事が役員を決めてやってもなかなかスムーズにいかなかったですね。ほとんど私の時代には、ここにみえる手島さんが庶務と会計を全部やってくれたですね。

手島 そうだったかね。(笑)

加藤 それから、一番印象に残ってるのは、33年に愛知建築士会が建設大臣から表彰を受けたことです。その時に記念特集号を出すということで、半田からも写真や広告を何か出せといって来た。いろいろ会を開いて話してもなかなか出てこないものだから、自分があっちこっち走って集めた。写真も自分の手がけた仕事、阿久比の公民館と豊浜の漁業会館を出してね。まあ、いろいろ催促があるもんだから自分が走ってやりました。
 当時副支部長は横須賀の杉江文治さんと富貴の堀さんでしたが、半田にみえないものですから連絡でも電話でしょう、いつでも。まあ、面倒だからこっちでやっちゃえと思って一人でやりましたよ。(笑)まあ、やってもらいたい仕事があってもなかなかうまく連絡出来なくてね。理事会にも仕事の都合で毎月行く訳にはいかないものだから、大体1年に7回位行ったですけどね。あとは副支部長さんでやってもらえないかと言うんだけど、なかなかいい返事はもらえなくて、まあ行かない時もあったですね。

稲葉 たしか、10周年の記念誌に半田としては、今いわれた2つと市民病院の写真を出したですね。その病院もまもなく取り壊して姿を消す訳ですが、やはりあの年齢というか…

加藤 だから、当時のことか今を考えると支部長さん以下役員さん、非常に積極的に仕事やってもらってね。本当にこう発展して来たと思っています。

司会 それでは引き続いて、堀支部長、渡辺支部長の時代のお話をお願いいたします。

伊東 堀さんは何年間やられたでしょうか。

水野 7年です。ちょっと半端になってますが。

稲葉 それは、相当長い間御苦労をかけましたから。任期途中でバトンタッチされた訳ですね。

手島 それと、この頃は理事会の報告なども内容があまり分らなかったですね。

稲葉 役員会にもなかなかその課題がのらなかったですね。

竹内 その具体性が表われたのが、村山さんの脱会だったですね。役員に大工さんの代表として出られたんですが、役員会を何べんしても今日は何を決めたのかつかめんと、それじゃ役員やっとる甲斐がないという様なことで。

伊東 それから、この頃から支部の会員もふえてくるし、仕事も急ピッチの時代になって来たですね。いろいろシビアに考えてやっていかなくてはならない世の中になってきたと思いますよ。

加藤 私のときは70人位だったですよ。

伊東 そうですね。それから急激にふえていってますからね。

司会 その他、渡辺さんの時代になにか。

竹内 あれは渡辺さんが支部長の終り頃でしたが、建築士会がバックで参議院議員の選挙運動をしたこともありましたね。ポスターの貼り方などが問題になって、いろいろ大変な思いをしました。

手島 そうだったですね。

司会 それでは、竹内(豊)さんの時代のことをお願いいたします。

竹内 私が今記憶のひとつに残っているのは稲葉さんが副支部長をやってくれた時で、非常に会議の仕方が上手に、何か規律正しくなったということは感じました。役所式にこう経過報告を先にやってあとで相談をして決めるという、順序よく立板に水を流す様に役員会でも出来ると、稲葉さんのアドバイスがありました。

稲葉 いや竹内さんがやられたんです。

加藤 堀さんから渡辺さんでしょう。だいたいあのへんの時にはあまりはっきりしなかったね、役員会でも何でもね。竹内さんの時代になってから整然となってきた。

伊東 そうですね。

加藤 支部長さんの指導によるですよ。

伊東 いやそれだけにね。僕は竹内さんからバトンタッチを受けたときに非常にそれが頭に残ってましたね。(笑)「竹内さんみたいにはうまく出来ないから困ったなあ」とそう言いましたところ、竹内さんがね、「それはまあいいでないですか」と、「私は私流にやったけど、君は君流にやればいいじゃないか」と言われましたね。

水野 竹内さんは非常に綿密にやられましたね。

伊東 竹内さんの支部長の時にあの推協というのが出来たのですか。

水野 推協は竹内さんが初代の支部長だったですね。推協の知多支部のシステムなども竹内さんがつくられたですね。

伊東 まあ、それがいろいろ違反建築だとか違反開発だとかの………

水野 行政に貢献しましたね。

竹内 まあ、何にしても、水野さんもおわかりになったと思うけど、支部長なんてことをやっているとほとんど仕事が手につきませんね。

水野 竹内さんは特に誠実でね。それは、竹内さんの集められた資料のぼう大さでも分りますね。それから今までの記録などもね、大変なものですよ。あれだけお世話いただければ本当に自分の仕事はやれないですね。

竹内 その上、土地家屋調査士の支部長もやりましたしね。

司会 その当時ですね、事務協の初代支部長もやっておられましたのは?

水野 あのときの建睦会の会長は竹内さん兼任だったですね。

司会 いえ、建睦会は会長はなくして当番制でした。

水野 あれが事務協に移行していった訳ですね。

竹内 まあ、そういうことですね。

加藤 加賀谷さんが会計やりだしたのはいつからだったですか。

司会 堀さんの時代からです。堀さんの終り頃から竹内さんの時代まで。

加藤 それまで手島さんが全部でしたね。

水野 手島さんも非常に几帳面な方ですからね。

加藤 私の時分は、会費を寄せるのがひとつの大仕事だったですよ。(笑)

伊東 今でもそうですわね。(笑)

水野 まあ、手島さんや竹内さんの様なお方が裏で支えてくれたから、今の発展もあるんじゃなかろうかと思いますね。

司会 では、伊東さんの在任当時のことをひとつお願いいたします。

伊東 そういわれてもね、まあこれという業績はないんだけど、(笑)先程いった様なことでね。ただ僕がやってる頃にまあ皆が少しずつ余裕という様なものも出て来て、その当時から僕がちょっとゴルフをやりはじめていた。それで、建築士の同好会CACという様なものを作ってゴルフのコンペを時々やったということが記憶にあるんです。今でも、その頃やりだした同好会が事務所協会と合同になり、又ゼネコンさんも加わって、非常に盛大にやってるということで、設計事務所や建設業に携さわる者の交流、親睦を深めたということは良かったんじゃないかと思うんです。

司会 いい傾向ですね。

伊東 特に今の様なきびしい又非常に多様化した状況になってくると、いろんな情報を交換したり、キャッチしたりということが、仕事にしても又経営についても非常に参考になると思うんですよ。まあ、会の方はね、僕が支部長をやった頃はもうまとまっておったですね。会員もふえて、もちろん今程じゃないですが、一応軌道にのっておったですからね。その様な思い出がありますね。

司会 それでは、稲葉前支部長さんにひとつなにか。

稲葉 私は、52年から56年まで支部長をやらさせていただいた訳ですが、ちょうど私が就任した時、半田市が40年という大きな節目にあたり、市の記念事業に建築関係で何かないだろうかということで、そのことを皆さんに諮ったんです。これは他の支部、豊田でも蒲郡でもやっておるということでしたから、公共の事業だけれども、皆さんの知恵と汗をねご協力がいただければひとつ取り組んでみるかといったことで、それで半田建設工業会にも話をかけて、ご覧の様な立派な催し(注:住まいとくらしの総合展)が出来たと皆さんのご協力に感謝してます。
 たまたま私が支部長であったんですが、それがたいへん思い出深いですね。私もいい勉強をさせてもらったなあと思うのは、事業というものは金はなくとも皆が出し合う知恵と汗でずいぶん出来るんだなあと。確か呼び水として市から30万の助成を頂き、会の予算が100万ちょっとでしたが、最終的には720万程度の事業費を集め余剰金で半田市民ホールの玄関脇へ日本庭園を寄贈するまでになりました。それまで士会はどちらかというと内部的に行事をやっておったですが、その半田市制40周年、それからもうひとつは建築士会半田支部25周年という2つの節目があったものですから、まあ、対外的にも支部や建築士そのものが一般の方にも認識され、社会的地位向上にもつながったんじゃないかと思います。
 それから内部的には支部の役員会は本会の理事会の様に毎月でなく隔月で充分いいんじゃないかと、その間において何かあれば臨時役員会をもうけてあたればいいという考えでやらせていただきました。又、本会に対しては支部の行事を出来るだけ助成してらいたいということで、そういう配慮が今後の本会の事業にかかわるということで、本会の方においても支部重視という軌道修正がなされて、今日に至ってますね。
 それまで、建築基準法改正の講習会とかは、ほとんど名古屋で。この知多ではなかなかやってくれなかったですが、通信費とか会場費とかを本会が負担しましょうということになって実現しました。ですから、私が在任中にもそんなのを2つ3つやらせていただきまして、その点も思い出が深いですね。

水野 今お話しになった「住まいとくらしの総合展」のことですけどね。あれ本当に今までの士会の行事の中で一番大きな成果をあげた行事だと思いますね。それから、あのブロック塀の診断あたりは稲葉さんの時じゃないですか。あれを士会が協力してやる様になったですね。

稲葉 あれはあの宮城県沖地震の時、ブロック塀で確か17名位の方が亡くなって、まあその教訓を生かして愛知県もね、いち早くブロック塀、中でも通学路を主体にした点検をやることになったわけです。これは安全協会にもお願いしてやってますが、今尚それは継続的に続けておりますね。

司会 来年度までですね。それではこの辺で次にひとつ、この支部、知多としての重要な事件といいますとまず「伊勢湾台風」がありますが、その当時のご苦労話をお聞きしたいと思います。

つづきはこちら